[Meet the Pioneer / 80年代当時のEYEVANを知るパイオニア] Interview with Kenny Schwartz

1986年、ロサンゼルスに一軒のアイウェアショップが
オープンした。
「オリバーピープルズ」。
今ではアイウェアブランドとしてその名を耳にしたことが
ある人も多いと思うが、
当時の〈EYEVAN〉にいち早く着目し、
バイイングと世界でのプロモーションにも一役買ったのが、
この同名のショップなのだ。
その創設メンバーで、当時のマーチャンダイズディレクターを
担当していたケニー・シュワルツ。
初期の〈EYEVAN〉を知る貴重な生き証人であるケニーが
居を構えるカリフォルニアのマンハッタンビーチを訪れた。

1985年、ロサンゼルスの一軒のアイウェアショップが初期のプロダクトを買いつけたことが大きな契機となり、〈EYEVAN〉は世界に拡張していった。

80年代中盤、オリバーピープルズを形作る

幸運なことに、私は1976年に自分のショップをオープンすることができた。ロサンゼルスのイーグル・ロックという場所だ。当時の私たちは、アイウェア産業に流入してきた多くの新しい技術を用いて新たな道を拓く最前線にいたんだよ。そういう変革を目の当たりにすることは、私にとってビジネスを始めるチャンスでもあった。

「オリバーピープルズ」の店は、ロサンゼルスにまったく新しいタイプのメガネを販売する小売店をつくりたいという私のアイデアから来たものだ。1984年に、サンセット・プラザに場所が空き、私たちはそこでショップを開く準備を始めたんだ。そのときはとてもワクワクしたよ。

アイウェアの変遷を目の当たりにしていた私たちは、自分たちは好機に恵まれ、かつ熱心な顧客がついていると感じていた。サンセットストリップは非常にアイコニックな場所で、当時は多くのハリウッドスターたちがそこにやってきて、散歩するにも買い物をするにも最高の場所だった。1986年にショップをオープンすることになって、興奮したよ。そこは「オリバーピープルズ」の名を冠し、さらにその旗艦店にもなる予定だったからね。

EYEVANを発掘した着眼点

「オリバーピープルズ」のショップをオープンする直前だったにもかかわらず、まだ自分たちがどんなデザインを売っていきたいのかということを本当に理解してはいなかった。ショップにヴィンテージのフレームを並べることもできたんだ。今でも私はヴィンテージフレームの熱心なコレクターだが、私たちは完全にオリジナルのものを作りたかった。自分たちの経験を活かして〈オリバーピープルズ〉のために何か特別でユニークなものを作るには、他とまったく違う方法を探さなければならなかった。アナハイムで開催されていたアイウェアの展示会に出かけ、初めて〈EYEVAN〉を目にしたのは、そんなときのことだった。

〈EYEVAN〉がやっていることを見たとき、ここにつながりがあると気づいた。彼らが作っていたフレームは、私たちとパーフェクトにつながるものだった。かつてない方法でリデザインされたヴィンテージアイウェアを核とするショップをつくり、かつてないアプローチでそのプロダクトをファッション界に提供していったんだ。

グローバルブランドとしてのEYEVAN

もし〈EYEVAN〉の名を広げる手助けをするなら、本当に正しいブランドイメージでそれを表現しなければならないと思ったんだ。〈EYEVAN〉とオプテックジャパンの山本哲司社長(*現会長)もまた、私たちの方向性に多大な影響を与えた。彼はとても流行に敏感な人物だったからね。とてもファッションが好きだとわかる服を着ていたし、常に最先端のファッションの話をしていた。だから私たちは、すべてをハイファッションの観点から行うことに決めたんだよ。ファッションショーのランウェイで目にするようなもの、『ヴォーグ』誌で目にするようなものさ。

サンセットストリートのショップでは、衣装デザイナーや映画会社のスタッフがやってきて、ピンポイントな注文をしていくことがよくあった。例えば、ハリウッドの魅力をテーマにした映画の衣装デザイナーが来店して、その映画の題材に合ったフレームを探すこともある。ぴったりのフレームがないこともよくあったけれど、〈EYEVAN〉とのコネクションを通しての制作を提案することもできたんだ。作ったフレームをショップに置くこともできたけど、〈オリバーピープルズ〉のブランド名で売ることはできなかった。ヴィンテージコレクションとして考えていたからね。ショップで売り、プロモートし、さらに映画でも使ってもらう。そういう魅力的なコレクションとなるのは〈EYEVAN〉にとっても良いことだと私たちは考えたんだ。

私たちが考えたことのひとつに、オードリー・ヘップバーン風の美しくて大きなプラスチックフレームを復活させるというものがあった。50年代から60年代にかけて、フランスで流行したスタイルだよ。そのころ、カンヌ映画祭の会場やカンヌ周辺を歩くときに美しい大ぶりのサングラスをかけていなかったらクールとはいえなかった。これは私たちがどんなふうに〈EYEVAN〉と仕事をし、コラボレートしたかという例えだよ。

オプテックジャパンとともに

1985年当時、オプテックジャパンとの最初のコミュニケーション手段はテレックスだった。ファクスの普及は80年代後半だから、それもまだなかった。初めてファクスを手にしたときは、天国からやってきたもののように思えたけど、日本へ行ったり来たりすることのほうが、ずっと大切だった。手紙以外にデザインについてのコミュニケーションをはかる手段がなかったからね。毎年5回は日本を訪れたよ。

決定的な瞬間が訪れたのは、日本への2度目の出張のときだ。よく覚えているけど、山本哲司社長(*現会長)が『The Genius of Japanese Design』という本をプレゼントしてくれたんだよ。建築やファッション、文化や調理法など、いろいろな角度から日本のデザインを紹介したこの1冊は、私の目を開かせてくれた。当初、私たちはそういったものをまったく理解していなかったんだ。アイウェアに関するお互いの知識についてコミュニケーションしていく中で、私たちが彼らの文化を受け入れ、彼らもまた私たちの文化を受け入れる。双方にとって、これは渡ることが難しい橋のようなものだったんだ。

関係を深め、目標を実現するのには長い時間がかかった。1920~30年代に作られた機械時代のフレームから、1970~80年代になされたことまでが、私たちが個人的に影響を受けたものだ。これをすべてひとまとめにして、より素晴らしいものへと昇華させたかった。理解してもらうのは至難の業だったよ。なにしろ、彼ら側のことについて私たちが学ぶべきことはたくさんあったし、私たち側のことについて彼らが知ることもたくさんあったからね。

EYEVANのプロダクト

自分たちだけの方法を見つけなければならなかったし、成功のために学ぶべきことを知る必要もあったんだ。大きな旅だった。本当に大きな旅で、これからも続いていく。今再び〈EYEVAN〉のしていることを見ると、大切な思い出がよみがえってくるよ。

1985年に、私たちは〈EYEVAN〉がまったく新しいスタイルを編み出したという事実に魅了された。〈EYEVAN〉はそのスタイルを、“EYEVAN 0501”のようなフレームを使って打ち出したんだよ。見た目はシンプルでベーシックなのに、とても複雑で。誰もこの技術でアイウェアを作ったことなどなかったんだ。メタルブリッジに、ビルトインのノーズアームパッドがついているデザインを作り出したんだ。穴を開けてネジでつなぐことで、それを直接プラスチック製のリムに取りつけたのさ。こんなシンプルにこんなことをした者は、誰もいなかった。レンズまで穴を開けて、直接メタルブリッジに取りつけるのが一般的だからね。プラスチックにまで穴を開けるなんて、誰もしたことがなかった。この新しいデザインは、プラスチックの色合いから生み出される多くの可能性を引き出した。クリアカラーから黒まで、なんでも可能にしたんだ。それを目にしたときすぐ、同じコンセプトからほかのフレームを作るチャンスが広がり、まったく新しい世界が突如目の前に開けたんだよ。

私たちは、その歴史とコレクションに日本のデザインカルチャーを落とし込んでいくアメリカ人のデザイナーであり職人だ。それはずっと変わらなかった。〈オリバーピープルズ〉はオーセンティックなアメリカのブランドだといえるが、そのブランドとプロダクトの哲学は『The Genius of Japanese Design』の考えから一度も離れたことがなかったんだ。

Kenny Schwartz ケニー・シュワルツ
80年代半ば、米・ロサンゼルスのアイウェアショップ「オリバーピープルズ」のオープン時からマーチャンダイズディレクターなどを歴任。〈EYEVAN〉にいち早く目を付け、80年代後半当時から世界へと〈EYEVAN〉を認知させた時代の生き証人。
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